2013.11.20

民主労総指導委員 金鎮淑(キム・ジンスク)

 

韓国人は日本を近くて遠い国だと言います。特に資本にとっては、お互いに近い国であるようです。

日本に行ってきた労働者たちから話を聞くと、労働組合を弾圧して労働者を苦しめているのは日本も韓国も違わないようです。

数年前に、日本で整理解雇と非正規雇用が増えさまざまな社会問題が起きているというニュースを聞いたとき、まったく遠い国のことと思いました。

いじめや通り魔についてもそう思っていました。

しかし、それらがわずか1~2年の間で韓国でも起きているのを見ると、それらは一国に限って起きているのではなく、資本が国境を越え大きな力を発揮する情勢の中で、弱者に共通して伴う苦痛のようです。

 

1997年にIMF通貨危機を経験し、韓国の労働市場は津波のような激変を経験することになります。整理解雇が日常化して非正規雇用者が正規雇用者の数を超え、労働者の貧困状態が今日まで続いています。

私が85号クレーンに上って309日間立て篭もった韓進重工業も、会社の経営状態は黒字であるにもかかわらず、労働者を整理解雇しました。

労働者は解雇されると失業給付や再就職などの社会的セーフティネットが全くない状況の中、労働者数百人の整理解雇を実行する資本家たちにおいて整理解雇は利益を高めてくれる財テクの手段として認識されている現実です。

現代自動車や大宇自動車では、多数の労働者を整理解雇し、労働組合は敗北感を抱き、資本は安価に非正規雇用を使いながら、労働者を正規雇用・非正規雇用に分断し、互いを敵視して分裂させています。

韓進重工業は、2003年にもリストラという名で650人の労働者に対し、希望退職という事実上の整理解雇を強行しました。その労働者は、韓進重工業に青春を捧げた労働者たちでした。

ほとんどが軍隊に行ってきて最初に就職した韓進重工業で、結婚し子どもを育てて休日もなく仕事をし、家にいた時間よりも工場で働いていた時間がずっと長かった誠実な労働者でした。

会社の退職通知に、彼らは真っ先に、裏切られたと感じました。

だから彼らは2年間闘いました。テント座り込み、剃髪、ハンスト、本社のあるソウルでの上京闘争。2年間、もう若くない労働者たちが血の涙を流して闘い、最終的に労使が合意した暫定合意案を、チョ・ナモ会長が拒否するという蛮行を犯します。

暫定合意案が拒否された日の夜、労働組合のキム・ジュイク支会長が85号クレーンに上がりました。その夜、雨が降っており、その事実を誰も知りませんでした。

後になって知った労働者らは驚き、会社も最初は驚きました。しかし、会社は無視で一貫しました。キム・ジュイク支会長がクレーンに上っていた129日間、一度も交渉がなされませんでした。

そして129日となったその日の朝。普段なら支会長はクレーンの上から組合員たちに向かって手を振って朝の挨拶をするはずなのに、その日は姿が見えませんでした。下の組合員がいくら呼んでも現れず、電話も出ませんでした。皆、不安に包まれました。

驚いてクレーンに上がった若い組合員の泣き叫ぶ声がクレーンの上から聞こえてきました。

129日、生きるために、組合員を生かすために孤独に闘ってきたキム・ジュイク支会長が、クレーンの上で首を吊ったのです。

不幸はこれで終わりませんでした。

支会長がクレーンの上で死んでも使用者側の態度は別に変わりありませんでした。

2週間が過ぎても、支会長の遺体はクレーン上から下りてくることも、葬儀をあげることもできませんでした。

2週間後に再び伝えられた悲報。クァク・ジェギュという労働者が85号クレーンのすぐ下にあるドックの底で遺体で発見されたというのです。

懲戒と損害賠償請求、仮差押え、そして検察を動員した逮捕令状発給などの弾圧に疲れ切った組合員たちはほとんど離れていき、クレーンを守る組合員60人だけが残っていた状況でした。

クァク・ジェギュ労働者はキム・ジュイク支会長と一緒に長年民主労組運動をし、キム・ジュイク支会長を尊敬し慕っていた純朴な労働者でした。

キム・ジュイク支会長が悲劇のように命を絶ったにもかかわらず、使用者側の変わらない態度に対し、自分の命を投じることで怒りと抵抗を示したのです。

結局二人の命を奪って、韓進重工業の整理解雇撤回闘争は終わりました。

強制的に辞表を書かされ出て行った労働者たちが復帰し、弾圧で一貫していた使用者側の態度にも変化が生じました。しかし、その変化は心から出てくるものではなく、労働者を悪辣に弾圧している企業というイメージを変えるためのショーに過ぎないものでした。

 

2011年1月6日。

私が85号クレーンに上ったその日、釜山の気温は零下13度でした。しかし、天気よりも寒いのは心でした。生きて下りたいが、そうはできないだろうという現実。

私はここでどのように持ちこたえることができるだろうか。

キム・ジュイク支会長が持ちこたえた129日を超えることができるか。

それまで持ちこたえたら組合員が何人か残るだろうか。

あれこれ悩みがかけめぐりました。

しかし、未練を持って欲を出すと、いっそう持ちこたえられなくなるだろうと思いました。

ただ心を空にして、2003年にキム・ジュイク、クァク・ジェギュ同志を冷たい地面に埋めながら、自分にした約束だけを考えることにしました。

しかし、状況は楽ではありませんでした。いろいろな悪条件を予想して最悪の事態をいつも準備していましたが、現実は想像していたよりいつも悪く迫ってきました。

その中でももっとも大変だったのは、当時の労働組合の執行部が私の意図をねじ曲げ、組合員と私を分断するために、あらゆるデマで私を罵倒したことでした。

2010年に会社側が整理解雇を発表したとき、強く反対するのではなく希望退職に組合員を誘導して闘争を回避していた執行部ですから、当然のことだったのかもしれません。

使用者側はもちろん、労組執行部と闘うことは想像よりもはるかに大変でした。

その頃が最も絶望的な状況でした。

 

チンピラを動員したクレーン強制排除の試み、孤立。

その後、奇跡のように希望バスが来ました。

希望バスは私も予期せぬ奇跡でした。

宋竟東(ソン・ギョンドン)詩人が私を生かそうと訴える文章を書き、その文章がSNSを通して全国に広がり、多くの人々が85号クレーンに興味を持ち、希望のバスに乗ってはるばる影島の韓進重工業まで来るようになります。

宋竟東詩人、長年民主化運動の先頭に立ってこられた白基玩(ペク・ギワン)先生、文正鉉(ムン・ジョンヒョン)神父をはじめ、これまで民衆に尊敬を受けて来られた方々の力が大きかったです。

それだけでなく、キム・ヨジンという映画俳優がツイッターで懇切に伝え、彼女と心を一緒にした方々が「キム・ヨジンと遊び人外部勢力」という集まりを通じて、SNSで状況をリアルタイムで知らせることはもちろん、クレーンに何か起これば釜山までかけつけたりしてくれました。

そんな方々が全国から集まってきました。

国内だけでなく日本、ドイツ、フィンランドなど国際的にも85号クレーンに注がれた大きな関心が、希望バスを5次まで展開させ、国会聴聞会を開かせ、最終的に国会与野党の合意による仲裁案が作られ、労使の合意に至りました。

私がクレーンで孤独な旗のように一人ではためいていたとき、あなただけではないと悟らせてくれた日本の労働者の同志たち。遠い日本から連帯の絆を見せてくれた方々。この場を借りて熱く感謝の意を申し上げます。

私たちが状況に屈して諦めていたら、それを乗り越えることはできないが、一緒に抵抗して闘えば、私たちは今よりもはるかに幸せで美しい未来を作っていくことができます。

資本の弾圧には国境がなければ、労働者の闘争も国境がないことを確認します。

最後に、希望バスの闘いをモットーに挨拶いたします。

楽しく、毅然と、大胆に!

笑いながら最後まで一緒に!